実は、私の嫌いな人は私です。 私を嫌っている人も私です。
自分の凄く嫌なところがあります。自分の欠点です。
見せると嫌われる。
見せたくない。
認めたくない。
自分の嫌で隠しておきたい態度や、とっさに出る感情の反応があります。
その同じ態度と感情の反応が他人に見えると、その人は私の嫌いな人になります。
私を嫌っている人、「誰かな~」と直ちに思い浮かばないこともあります。「もしかしてあの人、私の事が嫌いかも」と薄々気づく事もあります。
私を嫌っている人は、実は私が嫌っている人なのです。
東洋哲学に陰陽論があります。その哲学は、全ての物、人を含めて、陰(マイナス)と陽(プラス)の2つが合わさって全体ができいるという思想です。
陰と陽のどちらが欠けてもその人の全体を表していません。
いい点は積極的に伸ばして、いいところを出来るだけ多くして、自分の嫌な面は受けいれたくない。
しかしその嫌な部分も含めて私の全体ができています。その嫌な面を否定すると私が半分になってしまいます。
自分の嫌な面(マイナス)をまずは自分が受け入れる。嫌な面なので積極的な受け入れができません。
それでしぶしぶ、仕方なく受け入れる。一種の諦めの心境で受け入れる。
「諦観で己の運命の全て受け入れる」、かっこいい言い方もあります。
その実情はしぶしぶ、仕方なく、嫌々ながら受け入れる。
自分の意志でなく、受け入れるしか選択肢がない時もあります。
自分の嫌な面を受け入れる事は、かっこよいものではありません。
私はそれでいいと思っています。
そんな不完全な私でも、社会から受け入れて欲しい。
人から嫌われたくない。
自分の不完全は社会に受け入れてもらって、他人には完全さを求める。
それはちょっと虫の良い話です。 無理です。
それで他人の不完全さも受け入れるしかありません。
お互い様の考えです。
年齢は成人なのに、メンタル疾患の患者さんにはある種の子供ぽっさがあります。
Twitterの投稿にも、みんなが学校でワイワイと盛り上がっている雰囲気があります。或いはクラスの盛り上がりを遠目で眺めて、雰囲気を楽しむ姿があります。
それを見ると、私も過ぎ去った子供時代を思いだして、楽しそうだな、イイなーと感じる事もあります。
しかし昔の子供時代に戻りたいとは余り感じません。
ただし、一時的に数回であれば、一緒にワイワイとはしゃぎたい。そんな気持ちがちょっとだけあります。
そんな事もあり、私がメンタル疾患の患者さん見る機会も多いので、「大人とは」「大人に成るとは」を前から考え続けていました。治療上のヒントも求めていました。
参考にしたのは、歴史上の大物、大人(考えや心のおおきい人)や映画や小説のヒーローです。彼ら大物やヒーロー達が何を考えて、どんな行動をしたかは、だいたい知っています。それらの人物を「大人とは」の視点で見つめ直しました。
私が考える「大人とは」の候補ができました。それは、
「自分と仲間の将来に対する責任で、意志を持って未来を作る人」です。
しかし、いまいち腑に落ちませんでした。
確かに歴史上の人物や、映画や小説のヒーローは大物です。意志を持って未来を作る人と言えます。
対して私は市井の人です。大物でない事は確かです。
私を含め多くの人は、好きで積極的に大人に成なった訳でなく、嫌々仕方がなく、年を取り大人になったからです。
私を含め、その他大勢の多数派の「大人とは」の意味が必要です。
今の私は、悪い私を見ない、隠す、存在を無視する。
その悪い私の嫌な面(マイナス)を自分が受け入れると、「良い私」と「悪い私」が合わさって、私の面積が2倍になった。図-2でイメージが分かります。
それはもう小さい人、子供ではありません。
なんせ面積が2倍の大きい人になりました。
大人になりました。
面積が2倍になった後は、若い人の持つ純色のピュアだけで作られてません。濁った部分もあります。それを合わせて面積が2倍になりました。
大きい人の大人の姿が感覚的に理解できます。
これが多数派の「大人とは」「大人に成る」の意味だと思います。
しぶしぶ、嫌々ながら、仕方なく、自分の嫌な面を受け入れると、私の面積が2倍の大人です。
確かに若さの特徴と個性の尖った部分はなくなって、年を取った感じもします。少し悲しいですが、確かに大きい人になった気はします。
それでもずるい大人には成りたくないと、そんな声も聞こえてきます。
面積が2倍は大人の精神世界(心)の広がりの事で、TVや映画で登場する悪徳商人や悪政治家とは違います。
面積が2倍の大人になると、嫌いな人が減って、私を嫌っている人も減り、社会で自分の居場所が広がります。
生きやすくなります。 自戒の念を込めて書いておきます。
2023年版の終わり
作成 2024/02/11
この記事を読んでも「大人とは」が理解できないと言われた。
口頭で説明すると理解してもらった。
きっと図がない、説明が足りないと思って、図と補足文章を追加した。図の追加と同時に、内容を補足し始めると、「多数派の大人から大物に」の節が書けた。
これまでの記事全体の終わりが、少しもの悲しかった。「ずるい大人には成りたくない」と「居場所が広がる」の節の文章の調子が原因です。
年を取って、面積の大きな大人になれました。それはいい事ですが、次にさてどうするか、将来の展望が見えません。
それでは、誰が読んでも響くものがありません。特に若い人は、老いは遠い先にあるので、実感が湧きません。
「多数派の大人から大物に」の節が書けた事で希望が広がりました。
人は名誉、地位、権力、お金がないと、将来に悲観的になったりします。
そんな無い物を心配しなくても大丈夫です。自分の嫌な面を受け入れると、望む自分の未来が、自らの手で作れます。
そんな希望の記事になりました。
これまでの話で、多数派の「大人」は、良い私と悪い私の両方を受け入れた人です。その人は、欠点もある不完全な大人です。
その人が社会に受け入れて欲しい、嫌われたくないと考えます。
その為に、条件闘争ではありませんが、
不完全な私を受け入れて貰う代わりに、他人の不完全さも受け入れます。
お互い様です。
「意志を持って未来を作る人」などの歴史上の大物やヒーローは、憧れるだけの存在と思っていました。彼らは天性の才能があり、揺るがない大きな意志力があります。私や大衆とはまったく違う人間です。
しかしよく考えて見ると、面積が2倍の大人に成れたら、もしかしたら強い意志の潜在力も2倍に成るかもしれません。
良い私にある「何かを達成しようとする意志力」と悪い私にある「怠けようとする力」。その2つを足すと差し引きゼロになって、意志力が消えると言う考えもあります。
しかし実際、意志力がゼロとは想像し難いです。図-3を見て下さい。
良い私と悪い私の両方の意志力の容器には、意志と怠けが入っています。私がプラスとマイナスで作られているのと同じように、意志力の容器もプラス(意志)とマイナス(怠け)で作られています。
それで良い私と悪い私を合わせても意志力がゼロにはなりません。
意志力の容器内の意志と怠けの比率は波の様に常にうねっています。
人と物は陰(マイナス)と陽(プラス)で出来ています。100%の絶対の陽(プラス)はありません、そこには僅かな陰(マイナス)が必ず含まれます。
図-4は、陰(マイナス)と陽(プラス)が波のように動く様子を示しています。
その陰陽の波を表す言葉が
「陰極まり陽に転じ、陽極り陰に転じる」です。
何をしても上手くいかなくて、人生最悪、どん底と思える時があります。
陰(マイナス)が最大です。しかし底の底まで落ちると、そこから先は堕ちるようがありません。後は上がるだけです。陽は極小から増え始め、陰は最大から減っていきます。運勢が転じました。
反対に、全てが上手くいって、絶頂の極みを感じる時もあります。その時は陽(プラス)が最大に達して、上昇の余地がありません。それからは陽は下がり始め、陰が増えていきます。
陽極りが転じた例は、栄枯盛衰の平家物語です。
平家は朝廷を脅かすほどの権力を誇っていましたが、「壇ノ浦の戦い」からわずか数年で滅亡しました。
大きい人になると面積が2倍になっています。良い私と悪い私にそれぞれある意志の器も2倍の大きさになりました。
意志力が必要とされる時に、その容器を意志力で埋め尽くせばいいだけです。
大きな器がないと、入る物があっても入れる事ができません。
大物の人物の例えで、「器の大きい人」といいます。
もしそうならば、「意志を持って未来を作る人」である大物に少し近づけます。
大物に成る為の最初のステップは、自分の嫌な面(マイナス)を受け入れる。
もっと言うと、歴史上の大物に成れなくても
自分の嫌な面を受け入れると、意志の潜在力も2倍になり、
大きな意志力を使い、望む自分の未来が、自らの手で作れます。
ここまで書いて来てふと思いました。
もしかして意志の器が2倍になるなら、包容力、愛の大きさなども2倍になるかもしれません。
人間力が2倍です。そんな大きな人がいれば、私達の将来が明るくなります。
おいどんの西郷 隆盛氏の大きな姿が目に浮かびます。
ぜひ、大きな人になって、
望む未来を作る人であって下さい。
私達のためにも
終わり
全面改訂 2023/04/19
補足 2023/04/20
大人のイメージ図追加 2024/02/11
「多数派の大人から大物に」節を追加 2024/02/13
私達のため追加 2024/02/21
世界が広がる追加 2024/03/4